岩坂彰の部屋

第27回 翻訳の新たな規範とは

岩坂彰

少々前の話になってしまいますが、9月中旬に、本稿でもお知らせした山岡洋一さんの『翻訳通信100号記念関西セミナー』が私の地元、兵庫の西宮で 開催されました。「これからの出版翻訳を考える」というシンポジウムでは、この「WEBマガジン出版翻訳」編集長でありますサン・フレアの山本耕さんもパ ネリストとして発表に加わり、翻訳会社の立場から、これから求められる翻訳者像について語ってくださいました。

セミナーの様子を報告してほしいと、マガジン編集者のYHさんに言われたものの、なにしろテーマが大きく、発表者の視点もさまざまで[注1]、「まとめる」というのは難しそうだなあ、ということで、このマガジン読者で当日セミナーに参加されていた福岡在住の翻訳者であるANさんのご協力を得て、セミナーで感じたこと、ひっかかったポイントなどについて話し合ってみることにしました。

以下は、ANさんと私の間でやりとりされたメールからの抜粋です。岩坂 ANさん です。

喜んでお手伝いさせていただきます!
 私も規範のあたりが気になります。次に、山本さんのおっしゃっていた「産業日本語を作ろうという動きについて」。日英の機械翻訳にかかりやすい日本語、新しい翻訳調を作るという話です。
実は今月のWEBマガジンにセミナーの報告を書こうと思っていたのですが、どうもうまく、というか面白くまとめられず、結局断念して他のネタで書きました。
ところがYHさんに、来月でいいからセミナーの話を書いてくれと言われてしまったのです。困りました。で、ふと思いついたのが、セミナー全体を総括するのではなくて、ANさんと、印象に残った点、気になった点をネタに振り返るという形です。
 ご協力をお願いできませんでしょうか。
 私は「規範がなくなっている」というあたりを突っ込んでみたいのですが。それと、山岡さんがぽろっとおっしゃった「情報の翻訳は(本来の翻訳とは)別ですけれども」という件。
 はい、その通りの文脈です。実はセミナー出席前、山岡さんのお書きになったもの(ほとんど拝読しました。なにせ 大ファンですから)を読んだときから、あの質問者の方と同じ疑問を持っていました。例えば、翻訳会社の指示書によく「翻訳調ではない自然な日本語で」とあ りますでしょう。そんなとき、この「自然な日本語」って何よ、と思うんです。私が自然だと思っても、アナタ(翻訳会社)は不自然だと考えるものなんてゴマ ンとあるじゃない、と。この例に限らず、「わかりやすい日本語」でも「あらたまった感じの日本語」でも何でもいいのですが、翻訳の質をとする基準は何か、というのは大きな謎です。「翻訳通信」10月号では翻訳調が廃れた後の「新しい翻訳スタイル」について解説されていましたが、それを読んでこの謎がいっそう深まってしまって。
「翻訳調を出発点にしない」翻訳の効用はよくわかります。では、新しい規範、新しいスタイルとは具体的にどういうものなのでしょう?それがはっきりと理解できないので、翻訳の質を測る基準がいよいよわからなくなってしまいました。
 では、規範の話からいきましょうか。手元のメモを見ながら思い出してみますと、山岡さんの講演のあとの質疑応答 でどなたかが、翻訳調が規範ではなくなって、翻訳の質の担保はどうなるのか、というようなことを尋ねられて、山岡さんが(例の「翻訳調の歴史的な使命」に ついての話をなさってから)、もう規範が崩れて縛りがなくなっているのだから、新たな規範を作るべきだ、それが「ハードルを上げる」ということだとおっ しゃった、とそんな流れだったように記憶しております。ANさんも規範の件は心に留めておられたとのことですが、こういう文脈でよろしかったでしょうか?
 具体的に考えたらどうでしょう。規範が崩れた、新しい規範が必要だという話は、言い換えれば「良い翻訳」がどう いうものかについての共通理解がなくて困る、ということだと思うのですが、何が困るのか。ANさん自身、実際それで困ることってありますか? いきなり私 の結論を言ってしまうと、私は「新しい規範を作る必要なんかない。それはすでにそこにある」という考え方なんです。
 困ったことがあるかと訊ねられれば、答えはイエスです。が、あらためて考えてみると、私自身も常に困っているわ けではない、ことがハッキリしました。私が「困ったな。厄介だな」と感じるのは、「一緒に翻訳作業を進めるひと(翻訳者、チェッカー、コーディネータ-、 編集者など)と自分の間に、言葉に対する感覚について大きな隔たりがあるとき」だけなんです。)
 そう、私もそう思うんです。規範が問題になるのは、翻訳者とチェッカーの間で文句が出るときか、クライアントに 文句をつけられるときしかないってことです。自分で翻訳しているときには、訳に迷うということはありますけれども、それは単に適切な表現が思い浮かばない とか、解釈が絞れないとかいうことであって、規範に合う、合わないで悩むということはないです。実際。
 つまり、自分自身の指針はある。しかし他人には他人の指針がある。規範というのは、要するに共通の指針を決めようという話で、誰かに対して「この翻訳でいいんです」というときの論拠が欲しいということなんです。
 いま目の前にある例で言うと、形容詞の比較級を「より~な」と訳すのは、いわゆる翻訳調です。in search of higher yieldsは(金融の話ですと)「より高い利回りを求めて」ということになります。しかし「投資家が、より高い利回りを求めてA国ではなくB国に投資す る」という文脈では、私は「投資家は、高利回りを求めてB国に向かう」というような訳をします。「より高い利回り」としなければ正確ではないというチェッ カー/クライアントはいるかもしれません。しかし私は、比較の文脈は明らかであり、「高利回り」が「A国より高いB国の利回り」を指すことに誤解の余地は ない、と答えます。
 さてここで、説得的な論拠としての「新しい規範」はどうあるべきなのでしょうか。
> 誰かに対して「この翻訳でいいんです」というときの論拠が欲しい
 そうなんです!他人に納得してもらうために、自分の翻訳の妥当性を何かに「裏書」してもらいたいんです!
> さてここで、説得的な論拠としての「新しい規範」はどうあるべきなのでしょうか?
 うううううむ。難問です。結論から先に言うと、そんな規範はありえない、のではないでしょうか?
 規範というものは永遠の真理ではなく、当事者間で取り決める約束事です。ですから当事者同士は、個別の事例はともかく、大局的な考え方では一致していなければなりません。まずは同じ土俵に立ち、異論をぶつけ合い、そこでルールが決められていくのです。
 ところが、私が説得しなければならない相手というのは、自分とは根本的に異なる翻訳観の持ち主です。元から土俵が違うわけですから、議論を闘わせたくと も闘わせられない。例えば翻訳調についていえば、それを尊重する人々は、それを否定する人間から「翻訳調は冗長で不自然だ」という論拠をいくら熱心に聞か されても、「それがどうした?」と馬耳東風になりますでしょう。
 ということで、「翻訳の規範」は作り出せない、というのが私の結論になります。後ろ向きで面白くない結論です。もっとドラマチックな結果を導き出したかったのですが、残念ながら叶いませんでした。
 ANさんの結論は、翻訳の規範は作り出せない、ということですね。
 最初に書きましたように、私が思うのは、翻訳の規範はすでにそこにある、ということです。でもなんだか自信がなくなってきちゃったなあ。
 これでいいんだという説明に耳を傾けてもらえないのなら、たしかに話は進みません。でも、その人個人のことではなくて、業界全体として、大局的翻訳観に関わる話を聞いてもらえる人を増やしていくためには、なんらかの努力が必要かと思います。
 具体的には、「直訳」とか「意訳」とか言うのをやめて、「形式的等価」というようなきちんとした概念を普及させること。「何が必要なのか」という目的意 識を明確にすること。そうして翻訳における「正しさ」は常に環境依存であることを常識化すること。つまり、翻訳理論を一般化することではないかと私は考え ています。その理論がすなわち、「新たな規範」になるのだと。
 この場合、新たな規範というのは、例えば翻訳調では「~のところの」と訳していた関係代名詞を訳しおろすとか、分割するとか、そういうレベルの規範では ありません。私たちはいま、関係代名詞をどう訳すか、そのつど判断していますよね。その判断の元は、私の考えでは、いま取り組んでいる個々の翻訳の目的に あります。それぞれの目的に応じてどう判断するか、そこを意識化するのが新たな規範になるのだと思います。
 私たちは個々の判断を日々しているわけです。たしかに人によって一致しない部分もあるだろうけれど、本質的には一致しているのではないでしょうか。それは、伝える必要のあることを伝える、という点です。規範はすでにある、というのはそういう意味です。  「正しい」とか「誤訳だ」とかではなくて、「それで本当に伝わるのか」「こうしたほうが確実に伝わるのではないか」というような議論になれば、もう同じ土俵に乗っています。そういう個々の問題は、もう規範の問題じゃない。
 規範問題というのを、とりあえず私はこんな風に考えています。でも、これでは目の前の翻訳者-チェッカー間の問題は解決しませんよね。
> 人によって一致しない部分もあるだろうけれど、本質的には一致しているのではないでしょうか。それは、伝える必要のあることを伝える、という点です。
 頭をガツンと殴られたようです!セミナー以降、翻訳調と非翻訳調についてアレコレ考えてきたつもりの私ですが、こんな大切なことをすっかり忘れていたな んて。原著者の言いたいことを読み手に正確に伝えたい------これは翻訳を行う者にとって普遍的欲求であり目標ですね。翻訳関係者の共通意識といって もいいかもしれません。
それにしても、どうしてこんなに重要なことを忘れてしまうのか。翻訳で外国語と日本語の表面的な整合性を保つことばかりに気を取られるように、翻訳につい て考察するときにも、翻訳調vs非翻訳調、外国語vs日本語、漢語vsやまとことば等、目の前の単純な対立構図ばかりに心を奪われてしまっていたんです ね。この「本質的な一致」を起点として考えれば、大局的な翻訳観の相違という壁もスムーズに乗り越えられそうです。少なくとも出版翻訳の場合は。(実務翻 訳の場合は「お客様は王様(独裁者)」ですから、また別の問題が顔を出すかもしれません・嘆息)

> 規範はすでにある、というのはそういう意味です。
 なるほど。ということは、翻訳を山登りに喩えると、規範は「地図とコンパス」になりますね。頂上(「伝える必要のあることを伝える」翻訳)を目指す途上 で、自分がいまどこにいるのか、はたして正しい方向に進んでいるのか、等を定期的に確認するための翻訳者必携ツール。このツールを使えば、頂上にいたる複 数のルート(訳出方法)のなかで、いま自分が取り組んでいる翻訳にとって最適なルートはどれか、客観的に選択できるんです。なんという優れもの!

>でも、これでは目の前の翻訳者チェッカー間の問題は解決しませんよね。
この地図とコンパスを翻訳業界に普及させればいいだけの話です(笑)。それも存外かんたんなことかもしれません。なにしろ、これを活用したほうが質の高い 翻訳作品が生み出せるわけですから。難点としては、このツールを誰もが使いこなせるようになるには少々時間がかかることでしょうか。が、その日が来れば翻 訳者とチェッカーさんの会話が今よりも楽になるのは間違いありません。ただし、過渡期には精巧なニセモノが出現しがちですから、そこは要警戒ですね。特 に、「翻訳における「正しさ」は常に環境依存であることを常識化」の恣意的な拡大解釈には要注意が必要だと思います。いくら環境依存度が高くとも、正統な 日本語という矩を超えることはできない、というのが私の考えです。(この「正統な日本語」とは何かと考え始めると溜息しか出ませんが)
 「矩」というのは、「規範」よりも語源的にnormに近いですね[注2]。ふうむ。「心の欲するところ」と対になるというのも示唆的かもしれません[注3]。それはつまり、無理やり押しつけるべきものではない。気がつけばそうなっているというところを目指のがいいんですかねえ。
 まあ、世の中は誰か1人が計画したように進むものではありませんから、それほど力む必要もないと思うんですけど、私がこのコラムでときどき翻訳理論めいたことを書いているのは、「どうすればいいか」に対する自分なりのひとつの答えではあります。
 それと、いちばん大切なのは、自分の指針にきちんと則った翻訳を世の中に出すこと。それが読者に受け容れられてはじめて、その翻訳を生み出した指針が規範の候補として説得力を持ちうるわけですからね。

 長くなりすぎました。「情報の翻訳」とか「機械翻訳のための産業日本語」とかの話はまたの機会に譲りましょう。あ、「正当な日本語という矩」というのは、ひょっとして、そういう特殊な日本語を容認するかどうかということだったんでしょうか。それもまた後ほど。
ANさん略歴(ご自身による)
福岡在住。
米国系国際物流企業の営業職勤務を経て、2007年より実務翻訳者。
2008年後半に初の出版翻訳のチャンスを得たものの、
なぜかいまだ出版ならず。臥薪嘗胆。

(初出 サン・フレア アカデミー WEBマガジン出版翻訳 2010年12月6日 第4巻179号)